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 人から何かに誘われた時や何かを頼まれた時に、あまり気がすすまない場合があると思います。
そんな時、なかなか「ことわれない」という人もいます。それでイヤイヤやると、楽しくないし、余計に気疲れしてしまうこともあります。
反対に、思い切ってことわったけど、何かあと味が悪くて、後悔してしまうこともあります。
今週は「人づきあいをことわれない」という悩みについて考えてみることにします。

1.ことわれない理由、あと味の悪さの原因
人からの誘いをなかなかことわれない理由は何でしょうか?
また、ことわった時のあと味の悪さの原因は何でしょうか?

一つは、せっかく誘ってくれた相手に「すまない」気もちや「相手に悪い」というような思いがあるのではないでしょうか。
ことわれない理由としては、「ことわり方が難しい」と考えてしまう場合があります。また、ことわったあとに、「ことわり方」を相手にどう思われたかが気になってしまう場合もあります。

誰にも「人と仲よくしたい」「仲間はずれになりたくない」というような思いはあると思います。
また、「人に悪く思われたくない」「いい人だと思われたい」「人に好かれたい」というような思いも心の中にあるでしょう。
このような思いが、ことわるのを心理的に難しくしているのかもしれません。

2.ことわるのは悪いこと?
人づきあいをことわるのは悪いことでしょうか?
そんなことはないはずです。つきあうかどうかは個人の自由であり、強制されるものではないと思います。

本来なら、個人の意思が尊重されればいいのですが、中にはそれが気にくわない人も、「つきあいが悪い」と言う人も、仲間はずれのようなことをする人もけっこういます。
それは、しかたがありません。
また、それは「相手の問題」だと思います。

ことわるかどうかは、自分が何を大切にするかという選択の問題と考えたほうがいいと思います。
他に優先したいことがあれば、それを選ぶのはいいことです。

「ことわるのは悪いこと」と考えるのはやめたほうがいいと思います。

3.ことわり方
「ことわりたい」と思っても、どうことわったらいいのかわからない、ことわるのが難しい、と考えてしまう人もいるでしょう。
「きょうはちょっと」「忙しくて」「予定があって」「用事があるので」「やりたいことがあって」などで済むことが多いと思います。さらに細かく聞かれても、「いや、ちょっと」「ヒミツ」とか、「ごめん」「すみません」などと言えばたいていは済むと思います。
ことわり方をあらかじめ考えておくのもいいと思います。

もし今、ことわりたいつきあいがある人は、何かやりたいことを始めてみてはどうでしょうか。「やりたいことがあるので」とことわることができます。
趣味でも、習い事でも、何かの勉強でも、夢や目標でも、やりたいことを始めればいいのです。やりたいことをやる時間を増やせば、やらなくてもいいやりたくないことをする時間は自然に減っていくと思います。
また、やりたいことの中には、ひとりでやることもあります。たとえば、「幸せに暮らす」「自分を育てる」のような目標でもいいのではないでしょうか。それを人に説明する必要はないと思います。

ことわる理由として立派なことをやらなくてはならない、なんてことはありません。やりたいことの中には、「やすらいだ時間を過ごしたい」「このテレビ番組が見たい」「ゆっくり休みたい」「寝たい」のようなことがあってもいいと思うのです。それは「幸せに暮らす」目標の実践とも考えられます。それを「やりたいことがあるので」とだけ言えばいいのです。

中には、それでもしつこく問いつめてくる人がいるかもしれません。そういう時にも、「すみません」で押し通せばいいと思います。
「やりたいこと(予定/用事)って何?」「すみません」
「私(たち)には言えないの?」「すみません」
つきあえないことと、言えないことを謝っているのに、それ以上しつこくするのは無理があるのではないでしょうか。プライベートなことで人に言えない(言いたくない)ことがあっていいのです。
相手と議論してもしかたがありません。ヘタな言い訳はからまれるだけです。ただ「すみません」で押し通したほうがいいと思います。(それで相手がどう思ってもかまわない、と覚悟する)

4.選択のあとが大事
つきあいをことわるか、ことわらないかは、選択の問題です。
ということは、どちらを選択してもいい、ということです。

選んだあとに後悔してしまうから、「ことわれない」と悩んでしまうのではないでしょうか。
ここでよくないのは、“選択”ではなく“後悔”だと思います。
何かを学ぶ“反省”の要素がない、ただイヤな気もちになるだけの後悔をするのは、不幸になる考え方です。
不幸になる考え方は、気づいて、ストップして、切り替え(幸せになる考え方ができ)ればいいのです。
「後悔してしまう」も参考になさってください。

もう一つ大事なことは、自分の選択を活かすことです。
ことわったからには、その時間をやりたいことに使って、それを十分に愉しめれば、「ことわってよかった」と思えるでしょう。
ことわらずにつきあった場合には、その場を少しでも愉しめるように心がけられたら、と思います。多少の気まずいことがあっても「しかたがないこと」と考え、人づきあいの価値を考えることができたら、と思います。
自分の選択を「これでいい」と思えるように心がけることが大切です。

「つきあってもいいし、ことわってもいい」と考えられるようになれば、少しはラクに、マイペースで人づきあいができるのではないでしょうか。
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避けられないストレスをイヤがっていてもしかたがありません。どううまくつきあっていくかを考えたほうがいいのではないでしょうか。
ストレスの受け方を軽くすることはできると思います。

一つは「ストレスに対する考え方」です。
「ストレスはあるもの」「いいことをするためのストレスであり、それによって緊張感ややる気や集中力などが生まれる」「何か愉しみを見つけ、少しでも愉しんでやろう」「ストレスを乗り越えることで自分が成長できる」のような考え方ができれば、ストレスをイヤがっているよりも、感じる悪いストレスは軽くなるのではないでしょうか。
また、「前向きな考え方」「割り切った考え方」などでも、ストレスの受け方を軽くできることがあるでしょう。

二つめは「ストレスの受けとめ方」です。
イヤなことでもそれをどう受けとめるかで感じ方が変わります。
「受け入れる考え方」や「ハオハオ」などを身につけることで、ストレスの受け方を軽くすることができるでしょう。

三つめは「問題の対処法の考え方」です。
「不幸から抜け出す考え方」など、「幸せになる考え方」を身につけることができたら、と思います。
ストレスを受けやすい人の中には、「まじめすぎ」や「完璧主義」の人が多いでしょう。「まぁいいか」「なるようになる」のような考え方ができるようになることも大事ではないかと思います。

そのことがストレスになるか、どの程度のストレスになるかは、その人の受けとめ方によります。同じことでも人によって、すごいストレスになる人、ストレスにならない人、やりがいや喜びになる人がいる場合があります。好きなものはストレス解消になり、嫌いなものはストレスになる、ということもあります。
受けとめ方を変えることで少しでも、受けるストレスを軽くできたら、と思います。

恋人や友人と一緒にいても、「嫌われたらどうしよう」という不安だけが頭をもたげ、言いたいことも言えず、相手に気を遣うばかりで、まったく楽しめない。
そういう人は、「自分には恋人がいる」「友人がいる」という状況を、自分を飾るための肩書きのように思い込んでいるのではないでしょうか。

恋人に振られることを極度に怖れてしまうのは、相手との関係が壊れることそのものよりも、「私は恋人のいる人間である」というひとつの称号を失うことが怖いからです。
恋人のことが好きだから付き合っているというよりも、幸せな恋愛をしている友人への対抗意識や、以前に自分を振った異性への当てつけで、「私にだって、恋人ぐらいいるんだぞ」ということを見せつけたいだけなのです。

「他人にバカにされたくない」「つまらない人間だと思われたくない」という理由だけで、言いたいことも言えない相手と嫌々ながら付き合い、「恋人がいる」という体面だけをたもっても、それは本当の恋人とは言えません。
いえ、それどころか、体面をたもっていると思っているのは自分だけで、すでに他人からは見透かされていて、「あの人は、いったい何が楽しくて付き合っているのだろう」と思われていることのほうが多いのです。

「自分はどういう人間なのか」と自問したときに、あなたは、どんな答えが思い浮かぶでしょうか。
「一流大学を卒業した」「若く美しい」「交際範囲が広い」
これらは、「自分がどういう人間であるか」ではなく、「自分が何をもっているか」です。
「責任感が強い」「穏和な性格である」「スポーツをするのが好きだ」などということが、「自分がどういう人間であるか」を表す言葉です。
「~であること」を自信をもって語れない人ほど、せめて体裁をつくろうために、「~をもつこと」に執着してしまいます。そして、「もつこと」に執着するがゆえに、化けの皮がはがれることを怖れて、ますます自信を失ってしまうのです。

「私は恋人のことを愛している」というのは、「~であること」ですが、「私には恋人がいる」というのは、「~をもつこと」です。このふたつの意味は大きく違います。
「人を愛すること」に価値があるのであって、「恋人がいること」が重要なのではありません。
人間の価値は、「もつこと」ではなく、「あること」によって測られるのです。

志望していた大学の受験に不合格になったからといって、人生に絶望してしまうのであれば、そもそも何かを学びたいという意欲があったのではなく、「いい学校に入って、収入の高い仕事に就き、いい暮らしをしたい」という虚栄心しかなかったということです。
本当に勉学への情熱があるならば、どういう環境にあっても学ぶことはできます。受験に失敗したからといって、学びたいという意欲が衰えるものではないはずなのです。

恋愛経験の多さを自慢する人がいますが、あれはいかにも滑稽です。「私の愛情は長続きしません」と言っているようなものなのですから。
高級ブランドの服を嫌みたらしくひけらかしている人がいたら、「立派な服ですね」とおだてておきましょう。立派なのは服であって、その人自身ではないのです。
子供を偏差値の高い学校に入れることだけに熱を上げている親は、我が子をまともな人間に育てる自信がないのでしょう。いい学校に入れておきさえすれば、立派に子育てをしたとみなされると思っているのです。

「あること」が「もつこと」を生み出すことはありますが、その逆はありません。
自分の職業に誇りをもち、真剣に誠実に仕事をすることによって、地位や財産をえることはあります。しかし、地位や財産をえたからといって自分に誇りがもてるわけではありません。
他人を思いやり、他人の役に立つことができる人は、多くの人から慕われるでしょう。しかし、多くの人の関心を集めたからといって、思いやりが生まれるわけではありません。
「自分には何もないから、自信がもてない」というのは、おかしな考え方です。何もない状態で、どれだけ自信がもてるかが重要なのです。

「もつこと」は、どれだけ努力しても、自分の力の及ばないことがあります。
突然に仕事を失うこともあるし、災害で財産を失うこともあるし、恋人が心変わりをしてしまうこともあります。
しかし、「あること」は、完全に自分で決められます。これほど強い心の支えとなるものはありません。
「人の話をよく聞く」「他人の長所を見つけ、ほめる」「他人から親切を受けたときは、心からの感謝を示す」など、小さなことでもよいのです。「自分はこういう人間である」と胸を張って語れるものを決め、自分との約束を守ってください。

受験や就職に失敗したり、好きな人に振られたりして落ち込んだときは、「自分を見つめ直す機会を与えてくれた」と考えればよいのです。
「もつこと」によってごまかそうとしていた自分の弱さと向き合い、「あること」へと目を向けるための大きなチャンスです。
何年か後には、「あのときが、自分の人生の重要な転換期だった」と思えるようになるでしょう。

ある人の悩みです。
身勝手な友人に手を焼いている。その友人の話すことといえば、自慢話と愚痴ばかりで、うんざりさせられている。いつも自分の話ばかりして、私の話をまともに聞いてくれない。
先日は、一緒に食事をする約束をしていたのに、当日になって急にデートの予定が入ったからとキャンセルをされた。
万事がこのようにマイペースなのだ。
友人は奔放な性格で、別に悪気はないようなのだが、自分が軽んじられているような気がして、不満がたまってしまう。

また別の人の悩みです。
職場に無愛想な人がいる。朝、顔を合わせても、私には目もくれず、ぶすっと黙っている。
無視を仕返すのも大人げないので、私はその人にいつも笑顔であいさつをしているが、返事はない。
小さな職場なので、毎日気持ちよく仕事をしたいと思っているのに、その人の顔を見るとゆううつな気分になる。

このように、他人の態度にイライラさせられたとき、どう心の整理をつければよいのでしょうか。
無理をして我慢しようとすれば、「自分は悪くないのに、なぜ我慢しなければいけないのか」と、よけいに腹が立ってしまいます。
下手をすれば、「自己嫌悪に陥りたくないから、ますます相手を悪者に仕立て上げてしまう。そんなふうに他人を憎んでいる自分に嫌気がさす」という悪循環にはまり込んでしまいます。

「自分が悪いのか、相手が悪いのか」という考え方では、問題は解決しません。自分が悪くても、相手が悪くても、結局、後味の悪さが残るだけです。
「どちらが悪いか」という問題はひとまず捨ておき、「今後、互いの関係をよくするには、どうすればよいか」を考えるべきなのです。

どんなに虫が好かない人でも、いつか世話になることがあるかもしれません。
なるべく他人は味方につけておいたほうがよいのです。
もし自分が大ケガをしたとき、輸血をしてくれるかもしれません。
もし自分が失業したとき、仕事を紹介してくれるかもしれません。
もし地震や洪水などの災害にあったとき、食べものを分けてくれるかもしれません。
もし自分の目が見えなくなったとき、道案内をしてくれるかもしれません。

他人を「嫌な奴だ」と敵視することができるのは、今、自分がその人の助けを必要とするほど困っていないからです。
しかし、それはたまたま運がよかっただけで、いつ何どき、他人の助けを借りなければならない状況に陥るか判らないのです。
ふだんは他人をうとんじておきながら、自分が困ったときにだけ助けを求めるのは、あまりにも虫のよすぎる話です。

他人に腹が立ったときは、「自分が将来、困難な状況になって、その人に助けてもらっているときのこと」を想像すればよいでしょう。
もし何も困らなかったとしても、それは自分が幸運だったということなのですから、かまわないのです。
「せっかく保険の掛金を払い続けてきたのに、一度も病気にならなかった」といって怒る人はいません。安心をえることができたのですから、掛金が無駄になったわけではないのです。

近所の人と仲が悪くても、もし自分が急病で倒れたとき、その人が救急車を呼んでくれるかもしれません。
夜中にアパートの隣室の赤ちゃんが大声で泣いていても、「自分が年老いたときに、年金を払ってくれる世代なのだ」と思えば、うるさいとは感じません。
「他人を許す」ということは、いつか他人に助けてもらうための保険だと思えばよいのです。

もちろん、他人への不満をすべて抑え込めばよいというのではなく、八方美人になって愛嬌を振りまいておけばよいというのでもありません。
言いたいことが言い合える関係であれば、自分の不満ははっきり表したほうがよいでしょう。
しかし、「ただ、いら立ちをぶつける」のと、「互いの関係をよくするために建設的な意見を言う」のとでは、大きく違います。
その心がけが大切なのです。

「他人を味方につける」というのは、打算的な考え方のように思われるかもしれません。また、他人を敵か味方かに分けるのも、あまり感心できるものではありません。
しかし、自分の役に立たない人を敵視するのも、やはり打算的な見方です。
同じ打算なら、ものごとを前向きにとらえたほうがよいのです。

「どうすれば他人に傷つけられずにすむか」と考えるよりも、「どうすれば互いの関係をよくすることができるか」と考えるほうが、はるかに前向きだといえます。
「嫌なことを避けるための戦い」には、きりがなく、心は疲れ果てるばかりです。「嫌なことを避ける」のではなく、「よいことを取り入れる」と考えればよいのです。
ささいなことに腹を立てず、心穏やかに過ごせるようになれば、自然に打算などというものは心の中から消え去っていくでしょう。

他人の気持ちを先回りして読み取ってしまい、他人に気を遣ってばかりで、自分はいつも損をしている、という人がいます。
しかし、そういう人は本当は、他人の気持ちを思いやっているのではなく、「自分が嫌われていないか」「自分が変に思われていないか」と、自分のことばかり気にかけているのではないでしょうか。

本来、他人の気持ちを読み取ることができる能力というのは、悩むべき欠点どころか、長所であるはずです。
本当に他人の気持ちがよく判るのであれば、それはすばらしいことであり、自信をもってよいことなのです。

他人が傷ついたり落ち込んだりしているとき、冷静に的確なアドバイスをしたり、はっぱをかけて励したりするよりも、何よりも重要なことは、その気持ちに共感してあげることです。
人間の優しさとは、どれだけ他人に共感できるかということであると言えるでしょう。

傷つくとはどういうことか、悲しみとはどういうことかを知っているということは、まさにすばらしい長所です。
傷ついた経験のある人でなければ、他人に優しくすることはできません。
その能力をおおいに活かすべきなのです。

すぐに自分と他人を較べては、自分は他人よりも劣っていると卑下し、自己憐憫に浸ってしまう人がいます。
しかし、自分を劣っていると思うこと自体は、別に悪いことではありません。

自分にはまだまだ知らないこと、学ばなければならないことがたくさんある。他人のいいところを学び、もっともっと自分を成長させよう。
つねにへりくだり、他人を立て、他人を敬う姿は、美しいものです。
逆に、自分は優れた人間だと慢心し、他人を劣った存在だと見くだすことのほうが、人間としてみにくいことです。

劣等感に悩んでいる人は、本当に自分を劣っているとは思っておらず、「自分は他人よりも優れた人間であるべきなのに、誰もそれを認めてくれない」というごう慢さに苦しめられているのではないでしょうか。
それは単に、努力を怠っていることの言い訳にすぎないのです。

人は、自分の中の卑しい感情を認めたくないとき、それを打ち消そうとして、まったく正反対の感情を抱いているかのように思い込もうとすることがあります。
自己中心的なところを認めたくないために、「他人に気を回しすぎてしまう」と思い込んだり、ごう慢さを認めたくないために、「劣等感に苦しんでいる」と思い込んだりしてしまうのです。

人それぞれに長所、短所があります。重要なことは他人との比較ではなく、自分をどれだけ活かしているかということです。
誰にでも、自分なりの最高の生き方というものがあるはずです。それを見出すのが人生の目的だといってもよいでしょう。

サッカーは手を使わないからおもしろいのだし、俳句や短歌は字数に制限があるから工夫のしがいがあります。
まったく自由に、何でも思い通りになる人生に、何の楽しみがあるでしょうか。
障害や制約があるからこそ、与えられた条件のもとで最善をつくすことに充実感があるのです。
それを「苦労」だと受け取るか、「味わい」だとみなすかの違いです。

悩みをなかなか解決できず、苦しみから逃れられないときは、はたして自分が目指している方向は正しいのだろうか、と見直してみる必要があります。
どんな悩みも、悪いことばかりではありません。少なくとも、「同じ悩みに苦しんでいる人に共感してあげられる」という長所に変えることはできるのです。
悩みは、うち勝とうと必死で努力するよりも、「それを活かす方法はないものだろうか」と考えてみたほうが、うまく解決できることが多いものです。

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